会長挨拶

更新:2014年6月17日




2014年5月18日

日本文化人類学会会長(第26期) 関根 康正
会長就任にあたって

 第26期会長を務めることになりました関根です。4月5日に会長候補になってから、息つく暇もなく、小泉潤二前会長の下で第25期理事会が企画し、50周年記念事業準備委員会が中心になって、首都大学東京の研究大会実行委員会と共に準備された、日本文化人類学会50周年記念国際研究大会(IUAES2014合同開催)を迎えました。この突然に始まった多忙な日々は、私にとりまして会長の重責を担うためのイニシエーション儀礼の役割を果たし、お陰で第26期の理事会のやるべき課題を明確化することができました。ここにそのいくつかを述べることになりますが、いずれの課題も、会員の皆様の御理解と御協力を得なければ達成できないものばかりです。非力ながら、与えられた二年間、学会執行部として最善を尽したいと存じます。皆様の格別のご配慮をお願いいたします。

 改めて思えば、半世紀に及ぶ本学会の歴史は、錚々たる先人、先輩の研究者の高く深い志によって築かれてきたものです。それぞれの社会状況の荒波を乗り越えて日本における民族学・文化人類学の学統を繋ぎ発展させてきたのです。今、学会が置かれている社会状況はどんなものなのでしょうか。小泉前会長も指摘していたとおり、大学など高等教育機関が変動しています。そのことは、学会員に高等教育機関関係者が多いことから、学会が変動することを意味します。もう少し正確に言えば、ネオリベラリズム的経済原理が社会の隅々に浸透し、ある意味問答無用に私たちを取り巻く法制度に変革を強いています。この変革は、短期的には正しいように見えて長期的には正しくないかもしれませんし、あるいはその逆かもしれません。さらに飛躍して超長期的にみれば、現代のこうした葛藤も人類の生物学的運命の一コマに過ぎないかもしれません。この妄想はさておいて、この判断しかねる外圧的変革に学会が迅速に対処しなければならないことは事実です。現実社会の中で学会を維持発展させるために行う避けがたい努力です。

 しかしながら、学会という研究者集団が外圧対処のみに明け暮れるのも少々寂しいものがあります。そういう法制度的な外圧的条件の変移に対応しつつも、そういう努力が実りある方向に向かうように、個々人の研究者がそれぞれの現場での生活文化のフィールドワークを通じて自身の自己環境を創造的につくりだすことで「自由」研究空間を確保していくことを夢想します。言いたいことはこうです。個々の研究者、特に若い世代の研究者は法制度の影響をより強く受けていますが、その状況を新たな法制度の改革で救済されると考えるのは、必ずしも生産的ではありません。ここでこそ主客二元論的視座を離れる必要がありましょう。所与のいわゆる客体としての環境はある身体的個人が生きるという営為の出発点に過ぎませんし、それ自体はその人の環境ではありません。人類学者ならば、他の学問にも増してこのことに自覚的なはずです。人間が生きていることを捉える学問である人類学は、一人一人が身体をかけて構築している環境に注目したいし、そこにハツラツとした研究者の生き様も立ち上がってくるはずです。だから、学会の執行部はこのことを意識して、真の意味で現代社会の問題点を照射し少しでも人が生き生き生きる社会の構築に資する人類学の振興に向かいたいと考えています。社会批判による新たな社会構築にはそれなりに社会との距離が必要であります。内にも外にも批判精神をなくしたとき、その学問はもはや学問ではありません。現行社会の求める法制度改革だけではその目標は達成できません。学会執行部の役割は、その距離を少しでも保ち作り出すことと認識しています。

 したがって、簡単には調和しないであろう、法制度改革への対処と日常を生きる人類学の充実とを両睨みで、学会を運営していきたいというのが私の立場であり見通しです。

 この両睨みから出てくる、今期26期理事会に課せられた主たる課題は、通常の学会維持活動に加えて以下のようになりましょう。1)学会の法人化、2)人類学の社会的認知の拡大、3)国際連携の推進、4)国際情報発信強化と学会誌の再編、5)研究の活性化の支援、6)次世代研究者への研究支援、などなど。これらの課題に取り組むために、今期は新たに3つの委員会(「法人化検討委員会」「『国際情報発信強化』特別委員会」「学会賞検討委員会」)を理事会の中に新設し、総計で19の委員会が設置されています(詳しくは学会HPの役員名簿をご覧下さい)。理事はそれぞれに複数の委員を掛け持ちするという忙しい状態になっています。このように外圧対応態勢を講じて学会を下支えしていくように努めてまいりますので、学会員各位におかれましては、日常に学び、生きる人類学の充実という本願を達成すべく「いい研究」にお励みいただくようにお願いいたします。それなしに学会の生き残りも活性化もありません。

 大学が学問の府になったのは20世紀以来の新しい現象です。大学という高等教育機関は社会制度の一部ですから学問に法制度の圧力が直接かかるようになりました。論理的に純粋な「象牙の塔」は不可能だし「学問の自由」は社会との対話や抵抗なしに無条件に与えられているものでもありません。そうではありますが、現代社会の情報「管理社会」とワンセットの自由競争と適者生存を是とするネオリベラリズムの浸透は、学問の公共化という名の下に、目に見えるわかりやすい形を求める実践化とイベント化を促しています。良い効果もあるかもしれませんが、こればかりではじきに学問の空洞化を引き起こすことは目に見えています。人類学の中心は政策科学ではないと信じて今日まで私は人類学らしきことをやってきました。このような私の見方に同調できない会員の方もいらっしゃるでしょう。人類学とはどのような社会科学なのかはじっくり議論していかなければなりません。そのために、少々ポレミックなメモを最後に2,3記して会長挨拶に替えたいと思います。メモだけは、「である調」に変わります。

@人類学が学問でありたいならば、学問は基本的に壊れ物なので、丁寧に扱わないと元も子もなくなってしまう。人間も含めて生物を生かしているのは、精妙な現実なのであって粗雑な現実ではない。学問というものが必要なものとしてあるとしたらそこにおいてほかにない。実践化と国際化が課題になっていますが、その時慎重に進まなければならないのが、この壊れ物問題があるからです。「複数の人類学」が語られ始めているが、複数になることが本当の問題なのか、あるいは深さが問題なのかは慎重に吟味される必要がある。急ぎ足の複数化よりも、壊れ物を壊わさないように、生きられる精妙な深い次元のマルチチュードが求められていないかどうか考えてみたい。粗雑なオリエンタリズムは単なる学問のトピックではなく私たちを包み込んでいる現実であるから、注意深く進まなければならない。

A人類学は人間学でなく人類学と称していることは、今一度深く再考されるべきであろう。これは人間社会を研究する場合の時間の取り方に大きな影響を持っている。人類学は現代社会のフィールドワークに基づく思考であるとしても、それを少なくとも生物史としての人類史の時間スケールで考えるということである。ブローデルのように超長期の地質学的時間も場合によっては必要かも知れない。いずれにせよ、歴史的時間に過度に信をおく思考の限界を超えることに人類学は大いに関心を持っているということである。そこに真の現実批判の精神が宿っているに相違ないからである。

B上の@とAと考えたあとに、人類学は人々にとって社会にとって本当に役に立つ学問であることが明らかになる。社会はその手前で急ぎの有用性を求めてくるかもしれないが、この人類学の「人間が豊かに生き生き生きる」ための深く濃い有用性は粘り強く説明し発信していかなければならない。短期の粗雑な現実に対応しつつも、人類史の深みから発する知恵で現実社会を批判的に検討し、より善き方向に構築していく生の構えを提供できるはずであるからである。 

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