C-1. 長尾 朝子(神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科)
都市生活者の宗教感覚
都市化が進んだ現代の日本、特に都心部では人々の生活が大きく様変わりし、かつての共同体や伝統的な習慣・考えが急速に失われている時代である。本論では現代に生きる人々が作り出している新しい生活のスタイルを信仰という側面から探っている。
ここで言う信仰とは、一般の人が生活の指標として日常の中に取り入れている考え方や行動様式を指す。日本人は特定の宗派に属していなければ「無宗教」だと考える傾向があるが、そのような人々の行動の中にも自分の身に起こる様々な出来事に際して、その原因を超自然的なものに求め、それを上手くコントロールしようとする試みなどを見る事が出来る。こうした無意識的な宗教経験を通して、現代の都市生活者が持つ宗教意識を明らかにする事が本論の目的である。
ここでは具体的な事例として、修験者の資格を持つ在俗の宗教者・天遊氏と、彼を頼って来る「クライアント」との、相互的な関わり合いの諸相を取り上げている。天遊氏は建築業に携わる傍ら修験の活動を行っている人物で、「行」の一環として彼を頼る人々にお祓いや占いなどを行っている。一方、クライアント達は主に地域との繋がりが希薄で、宗教的な事に関しても自らの人脈によって天遊氏のような宗教的アドバイザーを探し出している。またクライアント達の間にはネットワークと呼べるほどの繋がりはないが、彼らの無秩序とも言える関係性は、人々の輪の自由な広がりを促す要因にもなっている。
天遊氏はいくつかの資格を持っているが、元は自己流で宗教的実践を積んできた人であり、血液型占いや十二星座占いなど様々な概念を駆使する。また現代科学や医療技術などと宗教を対立させる事なく、一面的な解釈に頼らずに時間をかけて心身両面からケアを行う重要性を解く。こうした全体的且つ実践的なケアを行う者として、在俗の宗教者の自負を見る事が出来る。
クライアントの依頼の内容には幽霊の出現や祟りなど様々な現象が見られ、それに対して天遊氏が判断し対処する事になるのだが、実際にはクライアント自身がそれを解釈しなおす事もしばしばある。また実害がなくなると原因の究明を止めてしまい、根本的な解決を放棄する事も多い。しかも両者はこうした関係性を自然に受け入れて、解釈のズレや矛盾には拘泥しないのである。
このような「いい加減さ」は、クライアントにとって宗教的なものが、実生活を円滑に進めていく為のものである事を表している。彼らは宗教的概念やその論理を必要な時に対策を立てる為の方便にしているのである。このような姿勢が、いわば誤解による意味の重層化や、様々な可能性を持つ再解釈の余地を生み、クライアントが納得しうる、実際的な現象解釈を達成する事になる。ここに「無宗教」的な現代人が、超自然的なものを介して、日常生活の中に生起する不可解な出来事の解釈や意味付けを立ち上げて理解を導いて行く過程を見る事が出来る。
C-2. 広田 健(埼玉大学文化科学研究科)
中央アンデス海岸地帯における神殿社会成立のプロセス
本論の目的は自然環境の変化に対する人間の適応と社会変化との関係を明らかにすることである。その事例として紀元前3,000年前後の中央アンデス海岸地帯を取り上げる。当該地域の先行研究はMoseleyによる文明の海洋基盤仮説の提唱とそれをめぐる議論、さらに社会変化に焦点を当てた議論とまとめることができる。本論では自然環境の変動をきっかけとして起こった生業システムの変化と社会変化とを結びつけることによって新たな仮説を提示するものである。
近年増加してきた気候変動に関するデータを総合すると、中央アンデス海岸地帯は紀元前3,000年頃を境に次第に乾燥していき、陸上野生資源は減少したと言える。そして気候変動と並行する時期に、海岸地帯では沿岸部および河谷下流域上部に公共建築を伴う遺跡が出現する。またこれらの遺跡から出土する動物遺存体の組成は、時間とともに砂浜で小型魚を対象とした漁撈活動が重要になり、それとともに栽培される綿の量も増加していったことを示している。
このようにみてくると、神殿社会成立のプロセスを次のように考えることができる。紀元前3,000年以前は、内陸と沿岸部を季節移動して陸上資源と海洋資源の両方を利用していたが、気候変動に伴って陸上資源が減少し、陸上資源を利用するメリットが失われた。その結果漁撈活動が既存の生業活動のなかから新たな適応として選択された。ここで重要なのが沿岸部と河谷下流域上部とに公共建築を伴う遺跡が併存しているという事実である。つまり沿岸遺跡で漁撈活動、内陸遺跡で綿・ヒョウタンを主とする小規模農耕という専業化がおこり、両者の間で交換が行われていたのである。したがって、公共建築を伴う遺跡は交易センターとして機能していたといえる。さらにその後、食用植物の遺存体が種類・量ともに時間とともに増加していくことは、この時期からENSOが活発化することを考慮すると、リスク分散を意図して栽培されたことを意味している。このように、綿・ヒョウタンその他の植物の栽培をへて組織化され、体制の整った内陸の集団に潅漑技術・トウモロコシが導入されることによって、海岸地帯の経済的中心が内陸部へ移っていったのである。
以上のように中央アンデス海岸地帯の一部の地域では、自然環境の変化に応じて生業システムを変化させ、さらには社会システムまでも変化させることによって神殿社会が成立し、展開していくのである。
C-3. 関口 由彦(成城大学大学院)
1920年代、30年代を中心とするアイヌの言論活動におけるアイデンティティと抵抗
本発表の主な主張は、1920年代、30年代を中心とするアイヌの言論活動においては二種のアイデンティティの認識が表明されていたと考えることができるのではないだろうか、ということである。
テッサ・モーリス=鈴木は最近の著作で、違星北斗をはじめとする当時の言論活動を担った論者たちが「アイヌとしてのアイデンティティ感覚を完全に消去する」ことを示唆する「シャモ/和人になりきるという選択肢」とは暗黙のうちで区別された「日本国民になる」という選択肢を選んでいたと述べる。そして彼女は、そのような「日本国民になる」ということは「アイヌとしてのアイデンティティ感覚を完全に消去するのではなく、むしろその感覚を豊かにするであろう過程である」とするのである。しかし、本発表は、当時の言論活動の場には「アイヌとしてのアイデンティティ感覚を完全に消去する」ことを示唆する「シャモ/和人になりきる」という「和人」化の主張もまた確かに存在していたことを主張する。そこからさらに、平村幸雄の論説に見られるような相互に矛盾するはずの「和人」化と「日本国民」化の主張の同時並存という状況(平村はその論説において「和人」と「アイヌ」のアイデンティティのあいだを横断していると考えられる)は、当時の論者たちに共通のものであった可能性があることを指摘する。もしそのように考えるならば、そこにおいて「アイヌ」/「和人」という範疇は境界の明確なものとしてではなく、個人による範疇間の横断を許すような境界のあいまいな範疇として認識されていたと言えるだろう。
しかし、当時の言論活動において「アイヌ」または「和人」の範疇はこのような仕方でのみ認識されていたのではない。「アイヌ」という範疇は個人による範疇間の横断を許すような境界のあいまいな範疇として認識されるいっぽうで、明確な境界をもち、個人に変更不可能なアイデンティティを与える範疇としても認識されていたのである。すなわちそれは「人口」を数えられるものとして捉えられていた。これはその範疇が境界の明確なものとして認識されていたことを意味する。なぜならば、そのような境界が明確にされてこそ、「人口」を正確に数えるということが可能となるからである。また同時に、それは「血」という生物学的要因によってその境界が定義されるものとされた。つまり、その範疇は自然的(本質的)範疇としても認識されていたということである。
C-4. 生野 恵理子(東洋大学大学院)
ボリビア・オキナワ移住地出身者の就労と生活 ―横浜市鶴見区でのフィールドワークを通して―
本研究は横浜市鶴見区での現地調査に基づき、日系ボリビア人の就労と定住に関する考察をまとめたものである。
1990年に入管法(正確には出入国管理法および難民認定法)が改正され、南米から来日する日系人就労者が急増した。このような動きに伴って、もっとも増加の著しかったブラジル人を中心に、いくつかの調査研究が行われてきた。
日系人就労者の典型とされる在日ブラジル人の特徴は、入管法改正前には日本国籍を持つ一世が来日し、法改正後には日本語能力の低いブラジル国籍の若年層と非日系人配偶者が増加したということにある。また、家族呼び寄せが進み、高学歴層も多数来日するようになった。現在、彼らの居住地域は全国に広域化しているが、大泉や浜松などの地域に集住している。工場などに就労するものが多く、人材派遣会社が借りた日系人だけのアパ−トに「囲い込み」されている。そして、不景気になると真っ先に解雇される彼らは、「景気変動調整要員」であるとされている。そのような待遇であるが、時差が12時間あることを除けば気分はブラジル、というような集住地域もあり、ブラジル人の定住化が進んでいる。
一方、本研究の調査からは前述したような研究結果とは異なる在日日系人の姿が浮き彫りにされた。対象者である鶴見の日系ボリビア人の特徴的な点は、戦後移民の一世および二世が中心で、いずれも日本国籍を有し、高い日本語能力を持ち、電気工事という職に携わっているものが非常に多いということにあった。そして独立し会社の経営を始めた人々が自らと同郷者の定住化を促進し、地域社会に固定すべく位置を見出した。
もう一つの特徴は、大きく分けて出身地別に3つの集団があり、その中でもオキナワ移住地出身者の動きが非常に大きいということにあった。これには鶴見が沖縄県出身者を歴史的に受け入れてきたという流れがあったからである。親睦会の様子や飲食店、あるいは南米生まれの高校生たちの報告から、鶴見に集住し公私にわたって重層的に展開していることが明らかになった。加えて、オキナワ移住地出身青年たちによる青年会メンバーの聞き取り調査において、10年以上にわたりこの地域への流入が継続していることや、送出元と同規模の集住圏であるということが裏付けされた。
以上が鶴見における日系ボリビア人の特徴である。本研究では、日本国籍をもち、日本語能力の高い、しかし人口の少ない日系ボリビア人に焦点を当ててきた。したがって、対象者をすぐ見極めることができず、鶴見区という地域社会の中で手探り状態のまま調査を行った。そのことは、多くの反省点の材料であると同時に、在日日系人の複雑さを示しているともいえる。今後、在日日系人研究を深めていく上で、南米から来日する人々を「日系人」とひとくくりにすることなく、移民の歴史をさかのぼり、各国に生きる日系の人々の多様性をふまえた上で進めていく必要があるだろう。