B-1. 谷口 陽子(お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科 開発・ジェンダー論コース所属)
諸集団、及び諸関係の中で形成される自己同一性 ―山口県豊浦郡矢玉を事例として―
私の修士論文においては、当該地域に生活する人々が、自分の帰属集団、あるいは属性を日常生活の中で極めて頻繁に言語表現化する傾向を、当該地域の社会的脈絡・文化的脈絡の中で分析することであった。具体的には、言語表現化の傾向は、この地域における複雑な社会関係のあり方を暗示するものであるという仮説に基づき、この語りの傾向が個人、あるいはこの地域にとってどのような意味を持つのかを考察した。
調査対象地域は、山口県の日本海側に面した漁村、山口県豊浦郡矢玉である。矢玉は、現在は世帯数402戸、人口984人から構成されている。この地域では、数十年来の友人同士であり、ほぼ毎日のように顔を合わせている近隣の者同士であったとしても、日常生活の中で自分の属性を頻繁に言語表現化し、自分と他人との間の差異を強調する特殊な傾向が見られる。私は、聞き取り調査の中で、複数のインフォーマントがこのような会話をしている場面に何度も居合わせ、このような言語表現の特徴に着目した。この言語表現は、矢玉における行政環境の歴史的変遷や地縁血縁関係、そして空間的状況の諸条件の複雑さを暗に示しているとも考えられる。
矢玉の社会・歴史的背景を検討する。江戸時代から明治初期まで、矢玉は周辺村落とは異なる藩行政下にで、独立した行政単位を維持していた。ところが明治22年の全国的な町村合併により、周辺村落と合併して行政的性格を失った。矢玉の住民は、周辺村落との合併に対して強く抵抗した。明治25年には、この周辺地域の中では例外的なことではあるが、行政機能の代償であるかのように、漁協が矢玉の全住民をその対象として、地域的纏まりを形成した。矢玉は、明治末期から第二次大戦を挟んで昭和40年代まで遠洋延縄漁業で栄えた。漁業は流動性の高い生業であり、個人間、家族間では、漁業をめぐって極めて競争的な人間関係が展開されている。その上、空間的には非常に密集し、内婚率が非常に高い。人々は非常に錯綜した人間関係の中に生活しているのである。
属性を頻繁に言語表現化する傾向は、個人、あるいはこの地域にとって持つ意味を考察する。第一に、個人は錯綜した人間関係の中での駆け引きを日常的に実践している。個人の言動や行動は常に周囲の目に晒されており、また、生業の流動的ゆえに、個人は日々その行動に決断を迫られている。第二に、個人は自分の属性を頻繁に言語表現化することによって、社会関係との相互関係性の中に、「自己」を位置付けている。この「自己」は、ウィリスが調査したフィパ族の「自己の概念」――「発展の過程としての自己」(ウィリス 1981:155)、つまり「言葉によるコミュニケーションの過程で、個々人は自己を規定することが可能となる」ということ――に類似している。従って、属性を頻繁に言語表現化する傾向は、錯綜した人間関係の存在する地域において、個人が生きるための実践なのであると推測されます。
B-2. 菊田 悠(東京大学大学院 総合文化研究科 超域文化科学専攻 文化人類学)
宗教的資源の多元的活用モデル:20世紀ウズベキスタンのイスラームを事例に
論文は2部から成る。第1部では産業化以降の社会における宗教の論じ方を再検討する。そして1970年代以降、世界各地で「宗教の再生」現象により単純な世俗化論が問い直されている事態をうけて、新たな説明様式を提示する。それが「宗教的資源の多元的活用モデル」である。
そこではまず社会の機能分化に伴い、宗教が社会の諸領域との結びつきを弱めていくことが想定される。しかしそれは宗教の消滅ではない。人間の究極的意味への志向により、宗教は法・政治・経済・教育・家庭等の各領域にもそれぞれに合う形で再適応する。いわば宗教的シンボルの自由化が進み、それらが各領域で法慣行や社会運動、自己顕示等に「資源」として用いられる状況になるのである。このように本モデルでは、宗教が収斂して周縁化するのではなく、諸領域に拡散、遍在して(この過程を「リソース化」と呼ぶ)時に人々を突き動かす潜在力を持つ点に注目する。
リソース化を促す要因としては産業化、都市化、教育の広がり等があるが、各地の「宗教の再生」現象では、地域ごとの政策、経済や教育の状況、ドミナントな宗教の種類等がその発現を制約する重要な要因である。このうちイスラームについては2章で考察する。しかしイスラームも含め各宗教の解釈にはかなり幅があり、特に資本主義的世界システムの周縁部では、宗教の自由なリソース化は体制を脅かすものとして政権に警戒されがちであり、その国家の対宗教政策のほうがより強くリソース化の制約要因として働いている場合が多いと考えられる。
第2部ではこのモデルと、旧ソ連邦を構成していたウズベキスタンにおけるイスラームの20世紀の経験が照合される。ソ連崩壊後、この地域のイスラームの動きをめぐっては、世俗化か、宗教回帰かという二項対立のとらえ方が議論の混迷を招いているが、モデルはこの混乱を解消する。ウズベキスタンでは、リソース化を促す都市化、産業化、教育の普及といった諸要因がソ連時代に急激に高まった。同時に政権による、イスラーム弾圧という非常に大きな制約要因があった。つまりこの地域のイスラームは20世紀前半に激しい社会変動によって従来の基盤を大部分失った。そして急速に分化した社会システムに対し、再適応を図ったが、その際に政権により法や経済の領域を中心に絶えず制約を受け、民族意識や女性の領域に偏っていくこととなった。それが連邦崩壊後の現在、適応範囲の制限がややゆるみ、また、様々な社会問題によって、リソース化したイスラーム的言説を用いてそれを乗り越えようとする運動が増加してきたと考えられる。これを単に世俗化と対立するものとしての宗教復興といえないことは明らかである。以上のようにモデルの有効性を確かめると共に、イスラーム的伝統、ソ連による近代化、近年の民族主義の台頭等がまざりあったウズベキスタンの事例の重要性を確認して論を閉じた。
B-3. 笹木 一義(東京工業大学大学院 社会理工学研究科 価値システム専攻 上田紀行研究室)
博物館利用者の人類学 −展示のエスノグラフィー実践への試論
本論は、博物館を取り巻く状況の変化の中で昨今急増する利用者研究を取り上げる。そして現在の日本の利用者研究が抱える問題である、明確な理念がないまま方法論を先行させて研究を進めてしまう状況を批判する。そして、人類学の視点から利用者研究を再考察し、博物館でフィールドワークを行う中で、展示のエスノグラフィーを実践することを試みる。
まずはじめに、博物館において担当者の展示コンセプトを一方的に利用者が受容するという従来の展示像、博物館コミュニケーション像に疑問を提起する。そして利用者が各々の価値観やライフヒストリーに則して、展示物を動的に解釈するという考えの下に、展示を介した館側と利用者の多方向的、包括的なコミュニケーション像を検討する。その際には、物と人との関係性についての蓄積がある、向精神性物質の研究を参考にする。また、学習理論の発展によって博物館が利用者へと視点を向けていったことを指摘し、利用者研究の発達を探る。そしてその中で、本論が立つ研究方法を明らかにしていく。
次に、現在の利用者研究に欠けている点であり、かつその理論的基盤となると考えられる「博物館利用者とは」、「利用者は何を求めて博物館を利用するのか」、「利用者の博物館での体験とはどのようなものか」、「調査と評価の違い」などの点を、フィールドワークによって得たインタビューや海外の先行研究をもとに再検討する。利用者が各自の知識、経験、動機、ライフヒストリーなどをどのように絡めながら展示を主体的に解釈しているかを、博物館利用者に対するインタビューから得られた彼(彼女)らの語りの中から探る。加えて、博物館での利用者研究に必然的に付随してくる方法論的、倫理的問題点についても言及する。その中で、利用者が博物館展示とどのように関わるかについて、向精神性物質研究の視点から用意したモデルとフィールドワークで得た利用者像をもとに考察する。そして本論で提示するコミットメント・モデルによって、これまで見過ごされていた博物館における展示物と利用者のコミュニケーション像を四つ提示する。博物館は、このモデルをふまえて現実の利用者像を把握した上で、自館のポリシーと利用者像を照合しながら活動する必要がある。
また博物館の現場におけるフィールドワークの実践から、展示への参加をふまえた利用者への視点を持つことができること、調査者が展示担当者と利用者の仲立ちという新たな立場になって分析できることなど、人類学の方法論が博物館における利用者研究に対してもつ有効性を明らかにする。最終的には本論を通じ、今後の日本の利用者研究に理論的基盤を与え、将来の博物館活動に資することを目的とする。
B-4. 川口 敦子(筑波大学大学院地域研究科)
北タイ・チェンマイ市におけるカレンの若者の経験と民族の語り
近年タイ国で「山地民」と総称される人びとの都市への流入が増えている。その背景には、タイ国家官吏・仏教布教団・キリスト教宣教師団・諸開発団体などの介入による、伝統的共同体の行政・経済・宗教面における急速な変化がある。
本論文は「山地民」の一グループとされるカレンの人びとのうち特にチェンマイ市に住む若者を対象とし、「カレン族であること」と「タイ人であること」との間で揺れ動いている彼らの経験を、タイ国家の山地民統制の歴史、民族境界を維持するためカレン集団内部のエリート層から現れてきた民族の語り、それらに対する個人の選択という三次元から考察することによって、「民族」という範疇がどのような構造の中で流動的に移り変わってきたか、そして現在も移り変わっているかを明らかにする。
タイ政府はその山地民統治の歴史の中で、文化背景の異なる諸集団に「山地民」という一つの名を与えることによって、彼らを広義のタイ族から排除してきた。その結果カレンの人びとは、タイ平地民との200年に渡る歴史の共有にもかかわらず、「山地民」という名を余儀無く受け入れてきた。しかし又同時に彼らは「タイ国民」として包摂される運命にもあった。
現在チェンマイ市に住むカレンの若者は、個人差はあるものの、カレン族であるとともにタイ国民であることに矛盾を感じていない。彼らはその日常生活の中で、「タイ人であること」が求められる学校と職場、そして「カレン族であること」が強調される家庭とキリスト教教会という二つの場を状況によって移り動いている。
しかし、タイ平地民が圧倒的な環境の中でカレン族であることを保持するためには、自己が他者に比べ優位にたつことを示す必要がある。そのためチェンマイ市のカレンの人びとの間には、ある一定の「民族の語り」が存在する。本論文では、「町には知識がある(が、思いやりがない。村には知識はないが思いやりがある)」「本当のカレンは文字とことばをもつ」「カレンはカレンと結婚する方がよい」という語りを取り上げた。
しかし、こうした語りは、それが言及する社会的現実に常に密着しているわけではない。カレンの若者の自己認識はまたそれぞれの経験にもとづいており、語りが生まれた歴史・社会的コンテクストとはまた別に個別に検討することが必要になる。
以上のことを踏まえ、本論文ではカレンの若者の自己認識を、「カレン族であること」を当然とする人びと、「カレン族であること」と「タイ人であること」を使い分ける人びと、そして「カレン族であること」を学習する人びと、という3つのタイプに分類した。民族の語りをもっとも必要とし、声高に主張するのは「カレン族であること」を学習する人びとであり、影響力をもつエリート層が多い。将来的には「タイ人であること」と「カレン族であること」の間でこうした語りが大きな力をもち、「伝統の再創造」的現象を起こす可能性もある。
B-5. 大嶋 智子(明冶大学大学院政治経済学研究科博士前期課程)
互酬経済の現在 ―台湾原住民ヤミ族の事例から―
台湾本島の東南に位置する蘭嶼島に居住するヤミ族社会では、貨幣の日常的使用が開始されて以降約30年が経過している。本研究は、市場経済化の普及が進むヤミ族社会で展開される、ブタとミズイモを主たる交換財とする現代の互酬経済に注目する。
伝統的なヤミ族の贈与交換は、(1)ブタ(あるいはヤギ)の供犠およびミズイモの分配が必要不可欠な場合と(2)干し魚中心(可能であればブタを供犠)する場合と2つのケースに類別可能である。上記(1)の場合をさらに、「支払手段」と「儀礼的象徴性」の2つに特徴付けることができ、「支払手段」とは、謝礼として、負債を決済するための目的や紛争の解決を指す。また「儀礼的象徴性」とは、超自然的対象に対し祈願を込めて贈与を行う場合が挙げられ、豊作・豊漁祈願、航海の安全等を祈る儀礼時に必要とされる。
1967年に台湾本島との往来が自由化されると、出稼ぎのため労働力が台湾本島へと移動し、生業形態が変容を余儀なくされる。一方、生活経済にしめる貨幣使用の割合は増加傾向を示している。現在貨幣獲得の最も大きな目的は、コンクリート住宅の建築である。建築作業は、当事者自身の労働を主体に、集落内に居住する男子成員および他集落に居住する親族たちとの協働が行われる。労働は相互に供出しあうのが一般的で、返礼としてブタの供犠とイモの分配を伴う饗応が開催されるが、貨幣は介在しない。伝統家屋の場合に比べコンクリート住宅の場合は、この饗応の回数が増している。かつては世帯毎に飼育されるブタが用いられたが、現在は台湾本島で購入されたブタの使用が一般的である。互助的労働交換に貨幣は介在しないが、贈与交換に間接的に介在する貨幣の影響力が強まっている。
2000年6月にイラタイ村で開催された長老教会落成式では、イラタイ村成員が主体となり、他5集落に対し、落成祝いの贈与が行なわれた。交換財となったブタ18頭と大量のミズイモ・サツマイモは、イラタイ村成員および教会によって用意された。落成式当日は、(1)信者のための式典と(2)ヤミ族の慣習に基づく落成式の2つが同時並行で進められた。(2)に参加するため、島の全集落から正装したヤミ族の男女が、宗教の枠にとらわれずにイラタイ村に集合した。ヤミ族の来客は、イラタイ村の人々から饗応を受けると、教会式典が続行しているのに構わず帰宅する。ヤミ族の慣習では一般に、饗応の終わりは儀礼の終了を意味する。
コンクリート住宅建築や教会をめぐる贈与交換においては、貨幣は介在しないものの、多くの貨幣が投入されるようになり、交換財は量的に増大しているといえる。また交換をめぐる規範も、伝統的ものとは異なるルールが創出されていると見ることができる。給与生活者の増加に伴い生業が衰退、付随する互酬的交換が失われて行くなか、家屋や教会という土地を基盤とした贈与交換は、以前に増して盛大に開催される傾向にある。