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• 1999年度第4回（修士論文発表会）　2000年3月14日（於：慶應義塾大学三田校舎）
  

  工藤　昌良(筑波大)	「スリランカの民族問題に関する文化人類学的考察―カースト研究を中心に」
  飯田　瑞穂子(筑波大)	「『まちづくり』意識の形成―静岡県東伊豆町商店連合会の活動を事例として」
  石井　香世子(慶應大)	「タイにおける山地民概念の変遷と山地民―チェンマイ市内のリスの事例から」
  村尾　静二(千葉大)	「インドネシアの伝統的身体技法プンチャック・シラット―映像人類学的アプローチ」
  助川　孝幸(立教大)	「ラス・カサスにおけるアメリカ先住民表象と他者認識―理想像としてのインディオの創造から他者性への承認へ」
  山上　亜紀(成蹊大)	「ネパール・バフン社会のジュト観念をめぐって」
  芝田　幸一郎(東京大)	「形成期アンデス社会の政治過程」
  澤合　由佳子(都立大)	「植民地状況における学校教育とキクユ社会―独立学校運動の成立背景を中心として(1900-1939年)」
  辰巳　頼子(上智大)	「フィリピン・マラナオ社会における新イスラーム知識人の誕生」
  水上　浩(千葉大)	「護身術の民族誌―インドネシアのプンチャック・シラット」
  大川　謙作(東京大)	「チベットの民族意識の生成をめぐって」
  中嶋　直樹(埼玉大)	「アンデスのポリティカルエコノミー―アンデス高地南部先史ティワナク社会を例に」
  藤掛　洋子(お茶大)	「農村女性のエンパワーメントに関する考察―パラグアイ共和国Ｓ村の住民女性が実施した生活改善プロジェクトを事例として」
  安藤　直子(お茶大)	「観光人類学再考―盛岡チャグチャグ馬子とサンサ踊りを事例として」
  服部　洋一(東京大)	「死と死亡の再考―終末期の人類学的研究に向けて」
  上野あかね(一橋大)	「ンゴジによる祟り―ジンバブエ解放闘争の『トラウマ』論をめぐって」
  田所　聖志(都立大)	「パプアニューギニア東部高地、サンビア族における社会統合の近代的変容―イニシエーション・儀礼的同性愛・出稼ぎをめぐって」

  
  

1. 　工藤　昌良（筑波大学大学院地域研究研究科）
   
   「スリランカの民族問題に関する文化人類学的考察 -カースト研究を中心に」
   　1983年の暴動以降，「多数派民族」のシンハラ人と「少数派民族」のタミル人の間での紛争と一般に位置づけられてきたスリランカの「民族問題」は，今日に至っても解決には至っていない．この問題に対してはエスニシティを中心に，人類学などによる学術研究が試みられてきたが，近年では研究報告の数が少なくなっていることから，研究手法としての限界に達しているものと判断できる．以上のように現状を認識した上で，本論文では，従来の文化／社会人類学において蓄積されてきた民族誌および国勢調査を検討することによって，カーストを中心とする社会組織などに着目し，民族問題との関係を探ることを意図する．また，最近ではあまり議論される機会がないと思われる，スリランカのカースト研究に関しても，シンハラ社会を中心に検討を加えている．
   　前半部分では16世紀以降のスリランカの植民地史，および現代史を取り上げ，独立後の政策や「シンハラ仏教ナショナリズム」に対する植民地統治の影響について論じた．特に英領期スリランカでは，シンハラ王権下を中心に機能していたカースト・システムに代わって，「民族」が主たるカテゴリーとして重視されており，カースト・システムの形骸化の過程を確認することができた．また，シンハラ社会でも，積極的に西洋文化を取り入れた低地部のカースト層が19世紀中葉以降経済力の獲得などを背景に台頭したことによって，旧シンハラ王権下での高位カースト層との軋轢が生じたことが，「仏教復興運動」，「シンハラナショナリズム運動」の一因となっているのではないかと考える．
   　後半部分では主として1990年代の南アジア人類学におけるカースト論を受け，現代シンハラ社会のカースト・システムについて論じた．近年カースト概念の再検討が試みられているが，民族誌などの検討から，シンハラ社会に限り，宗教的な規定が困難であることから，浄／不浄の概念を援用することはできないと考える．また，英語の Caste に相当するシンハラ語のいくつかの概念（jatiya，kulaya，variga など）が「職業集団」，「内婚集団」などの様々なカテゴリーを村落／国家レベルにおいて複合的・相対的に示す動態的なものであると考えられるのではないだろうか．さらに，独立後の民族誌から明らかになったのは，村落内の問題として内婚をめぐるカースト内／間の緊張の増大や，選挙とカースト・グループの政治的関係などである．こうした問題は，かつて村落内の高位カースト層の首長などが有していた紛争解決の機能が，カースト・システムの形骸化によって失われていったことが関係していると考えられる．こうしたカーストをめぐる問題は，「民族問題」に対しても影響を与えうるものであるといえるのではないだろうか．
   
   
   
2. 　飯田　瑞穂子（筑波大学大学院歴史・人類学研究科）
   
   「「まちづくり」意識の形成―静岡県東伊豆町商店連合会の活動を事例として」
   　村おこしや町づくりの名で実施された地域経済振興策または運動は、昭和50年代から60年代にかけて一世を風靡したが、それに関する民俗学的研究は乏しい。本研究は、その事業内容だけでなく、その現場にいた個々人の言動に注目し、特に所属する「町」や「村」に対して何らかの問題意識を持ち、さらに村おこしや町づくりへの参加志向が形成されていく過程を、「まちづくり」意識の形成と呼び、再検討を加えることを目的とする。
   　具体的にはまず、昭和30年代から温泉観光地として成長した静岡県賀茂郡東伊豆町商工会によって策定された、一泊宴会型から滞在型宿泊形態への転換を目的とする地域経済振興運動の基盤となる地域経済ビジョン「文化の町づくり」の論理を検討し、「東伊豆町が生き残るために、全町挙げての観光地づくり」という語りに潜在する、強圧的態度の問題点を指摘した。
   　次に、経済ビジョンの具体化作業である商工会主導の「リゾート（滞在型観光地）づくり」において、牽引力となった商業者グループに注目し、彼らが「リゾートづくり」に至るまでの過程を明らかにすべく、従来所属していた商業者集団である東伊豆町商店連合会での活動状況を、昭和49年の発足から昭和60年の解散の数年後まで通時的かつ詳細に記述しながら、当該地域における経済的優劣関係が、彼らの語りの中にいかように現れ、また変化しているかを明らかにした。
   　さらに、彼らが全町的異業種団体である東伊豆町商工会青年部に加入し、そこで自主的な経営・経済学習会である「グループ別研修」を進める中で、観光地における、商業者としての自らの位置を確立しようとする模索が始まった。それは、対宿泊業者という図式の中で展開したのだが、その図式を放棄し、自らを受益者として見出す契機となったのが、「リゾートづくり」なのである。これへの参加により、商業者は宿泊産業が圧倒的な経済力を持つ「町の経済」に貢献しうる方途を見出したのだが、その反面「全町挙げて」の語りに統合された彼らは、「町」の将来を担う者として一種の優越感を獲得し、この語りを再生産し、新たなる「観光地」としての「町」の創出を図っていく傾向にあると言える。
   　当該地域において基幹産業と語られるのが、温泉旅館を中心とする宿泊産業であるが、東伊豆町では一般的に、この語が「宿泊経済」とともに、「観光」と同一の意味で用いられている。東伊豆町商店連合会は、地元消費者を顧客とする一般商店によって構成されていたため、発足当初は「観光」は自らの利益とは遠い関係と認識されていた。
   
   
   
3. 　石井　香世子（慶應義塾大学大学院社会学研究科）
   
   「タイにおける山地民概念の変遷と山地民−チェンマイ市内のリスの事例から」
   　本校の目的は、まず近代国民国家システムによる「少数民族」の創出とその周辺化の過程を捉えなおすこと、次に「少数民族」性の逆利用という生き方への視点を問いなおすことにある。その例として、タイ王国において、北部山岳地帯の住民と結びつけられた概念「チャオ・カオ」を例に、タイ王国とそれをとり囲む国際社会との関係を考察し、概念上の存在としての「チャオ・カオ」が政治的・経済的にいかに資源化されてきたかの変遷を追う。
   　1999年4月、タイ北部のチェンマイ市で、山岳部住民による、市民権付与と森林法改正を求める座りこみデモが行われた。このとき政府側は、担当省責任者との話しあいを求める住民側の要求を渋り、最終的に警察の軍事力で人々を強制退去させた。
   しかしタイ国政府は、過去30年来、山岳部住民を「チャオ・カオ」(タイ語で"山の人"の意。このとき新しく作られた概念)と呼んで、「タイ国民としてのい一級市民化」「自立的な生活の実現」を扶助するという目的のもと、外国援助を中心に莫大な資金と多大な労力を払ってきた。なぜ、そうした政策開始後30年以上を経た今、山岳部に住む人々は、タイ市民権を要求して座り込みデモという手段に訴えなくてはならないのだろうか。また、政府は30年間努力してきたはずの政策を促進するはずの人々との話合いを渋ったのだろうか。
   　その理由は、もともとタイ政府が政策の前提として想定するような「チャオ・カオ」もしくは「チャオ・カオ」の生活状況が実在しておらず、「チャオ・カオ」概念自体が、近代産業システムと国民国家システムの絡み合う中で創り上げられてきた概念としての存在であったためである。また、それら不在のものを対象化して打ち出されてきた政策とは、近代システムの中で「チャオ・カオ」概念が戦略的・商品的に資源化され、利用されてきたゆえに行われてきたものであたためであると言える。
   これは、近代国民国家タイの建設にあたって行われた３つのナショナリズムの波、−絶対王政下の行政エリートの認識事項としての「タイ人」概念の確立(19世紀のチャクリー改革)、立憲君主革命における革命支持者層創出のための都市住民層の「タイ人」化(1932年の立憲君主革命)、冷戦下の開発軍事独裁政権による周辺民族の非「タイ人」化の中で、「チャオ・カオ」概念が醸成されていったという国民国家システムと非タイ人の創出という過程が関係している。
   　また、こうして創られた「チャオ・カオ」イメージは、麻薬栽培者・禁治産者・先進国観光客向けの観光資源・環境破壊者・違法移民として、近代システムの中で自在に創り変えられていったのである。
   
   
   
4. 　村尾　静二（千葉大学大学院文学研究科）
   
   「インドネシアの伝統的身体技法プンチャック・シラット―映像人類学的アプローチ」
   　「プンチャック・シラット」（pencak silat）とはマレー文化圏に遍在する、護身と演舞の身振りを併せ持つ伝統的身体技法であり、その歴史は古く、起源に関しては諸説があるものの、今回調査したインドネシアでは、現在に至るまで、その伝統が地域的広がりのなかで色濃く受け継がれており、この地域の身体文化の一側面を形成していると捉えることができる。本論考で明らかにしたのは、この伝統的身体技法が、組織化の過程を経るなかでインドネシアの身体文化へと形成されていく歴史的経緯。技の教授が行われる実践の場「プルグルアン」には、厳密な師弟関係をとる伝統的形態と、入門の制限は緩く、教則本と効果的な指導法を採用する現代的形態の、大きく二つの運営形態がとられていること。また、そこでは各流派独自の護身や演舞の技法、他流派との共通の規則の上に成立するスポーツ競技に特化した技法の実技指導に加え、その教授のなかで徐々に構築されていく師範と練習生の関係は、練習生が自己規制という精神の技を獲得していく契機としても大きく機能していることである。
   　本論考のもうひとつの論点は「映像人類学的アプローチ」であり、ここではそれを二つのアプローチから展開した。（１）インドネシア人師範から直接、技の教授を受けるなかで、自ら撮影調査した映像を介し、この身体技法がどのような技を蓄えているのかを分析した。そして、師範方との共同試写および議論を重ねるなかで、各器官の動きと象徴性、技の連続性から生まれるリズムや間、息を継ぐタイミング、身体バランス、仮想的を想定した演者の身振りが常に意識している空間的間等が、この技法を構成する上で重要な要素となっていることが明らかになった。（２）この技法をテーマとしたヴィデオ作品を制作することにより、活字による民族誌に対する、映像による民族誌が人類学研究において果たし得る役割、その可能性と問題点を検討した。本論考のように、非言語領域に宿る文化情報や、一定のタイムシークエンスのなかで展開される文化事象を分析、提示する場合、映像の表象能力は大きな効力を持つ。ただ、そのためには、基盤となる豊富な視聴覚情報の特性を把握する必要があり、撮影調査者の調査対象に対する関与の仕方とともに、その把握の度合いが映像の質を大きく左右することを痛感した。今回はその見通しを立てるべく、本作品の一連の制作過程を大きく三つの過程―再現と分析のメディアである映像の特徴を想定しての作業仮説、実際の撮影調査における調査者と調査対象との間の関係性の構築、調査データとしての映像の編集作業および、それを受容した視聴者が抱く文化イメージ―から捉え、提示することにより、映像による民族誌の制作過程を構造化し、必要に応じて民族誌学や映像表象論との相関を追いながら、映像による民族誌とは何かという問いに対するひとつの見解を示した。
   
   
   
5. 　助川　孝幸（立教大学大学院文学研究科）
   
   「ラス・カサスにおけるアメリカ先住民表象と他者認識−理想像としてのインディオの想像から他者性の承認へ」
   　16世紀スペイン人によるインディアス（旧スペイン領アメリカ）関連の文書は、歴史学的史料や民族誌として評価されてきたものが多かったが、近年では文書執筆の意図という側面や、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』で指摘したような、表象する側とされる側の力関係の不均衡という側面からの分析もなされるようになってきた。ところが、従来「先住民の擁護者」として評価されることの多かったスペイン人ドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサス（1484-1566）の著作に関しては、そのような側面からの分析はこれまでほとんどなされてこなかった。そこで修士論文では、ラス・カサスのアメリカ先住民表象を、表象する側とされる側の力関係の不均衡という観点から分析し、合わせてラス・カサスの他者認識についても考察することを目的とした。
   　16世紀のスペインでは、スペインによるインディアスの征服・支配の正当性を問うインディアス論争が惹起した。当時のスペインで一般的な先住民像はインディアス論争と密接に関連し、スペインによるインディアスの征服・支配を正当化するために野蛮で理性を欠いた先住民像が創造された。
   　そのような、16世紀スペインで流布した野蛮で理性を欠く先住民像に対抗し、ラス・カサスは一貫して善良で理性的な先住民表象を行った。彼は、善良でキリスト教徒たる素質をすでに備えた存在として先住民を表象したが、それはある意味では自己の理想像としてのインディオの創造であった。そしてラス・カサスにおける先住民表象が、先住民とスペイン人の間の力関係の落差のもとに行われ、彼が多様な先住民間の文化的差異を捨象し、一方的に先住民を紋切り型に表象することで、先住民の他者性を解体してしまっているとも言える。
   　さらにラス・カサスにおける他者認識の枠組みとその変化についてであるが。ラス・カサスにおいてはキリスト教徒（自己）と非キリスト教徒（他者）が分けられ、自己を同定するための他者として異教徒（イスラム教徒）、黒人、改宗ユダヤ人らが割り当てられていた。そしてラス・カサスに特徴的なこととして、アメリカ先住民を潜在的キリスト教徒として自己（キリスト教徒）の側に含めていて、この点が他の同時代スペイン人の認識と大きく異なっている。晩年になってラス・カサスは先住民の人身犠牲に関する考察から、彼らの宗教にその独自性を認め、先住民の他者性を承認し、キリスト教中心主義から脱し相対主義的視点を獲得するに至る。
   
   
   
6. 　山上　亜紀（成蹊大学大学院文学研究科）
   
   「ネパール・バフン社会のジュト観念をめぐって」
   　ネパールのバフン（ブラーマン）社会には、ジュトと呼ばれる観念が存在する。ジュトは、主に「喪」と「食」にまつわる「ケガレ」を指し示す語であるが、この２つのジュトの中でも特に「食」に関するジュトの意味内容を明らかにすることが、本研究の主な目的である。
   　データの主要な部分は、1999年8月20日から1999年10月15日にかけて行った短期間のフィールドワークに基づいている。調査地は、カトマンズ盆地の中心に位置するリングロードと呼ばれる国道が取り囲む地域で、対象は、この地域に居住するバフンの人々である。調査の目的は、ネパール語のジュトが実際に使用されている状況を観察すること、ジュトに対してバフンの人々がどの様に考えているのかを聞き出すことである。
   　今回行った調査の結果、次のような「食のジュト」の諸特徴が明らかになった。
   　食のジュトは、主に「水で調理した食物」と「口を付けた食物」に対して用いられることばである。ただし、これらがジュトと呼ばれるか否かはジュトに関わる個人によって変化しうる。たとえば、水で調理した食物であれば、神にとってあるいは成人男性にとってはジュトであるが、成人男性以外の人にとってはジュトではない。このように、神にとってなのか、成人男性にとってなのか、あるいは成人男性以外の人にとってなのかによってジュトとされるものも変化しうる。また、食のジュトには、「食べてよい」とされる場合と「食べてはいけない」とされる場合がある。たとえば、口を付けた食物は全ての存在にとってジュトである。ただし、人間の場合であれば、神の場合には存在しえない「食べてよい」とされるジュトが存在する。妻にとって、夫が口を付けた食物、すなわちジュトは食べられるジュトであるし、友人であればジュトを共に食することができるのである。
   　食のジュトが持つ特徴の最たるものは、調理や食事という過程に伴って生じる「境界」性である。その境界には、２つの種類がある。一方は、調理過程において生じる「転移による境界」である。この境界は、調理人に内在するある種の「ケガレ」が、調理の際に用いられる水を媒介として食物に転移することによって生じる。もう一方は、食事過程において生じる「所属による境界」である。この境界は、食事の際に食物に口を付けることによって生じる。口を付けた食物が、口を付けた当人の所属下に入ったと見なされるからである。
   　これらの境界は、ある特定のジュトに関わる個人の系譜的位置や親密度などを含んだ諸々の社会関係の中で、相対的に変化する性質を持ったものである。
   
   
   
7. 　芝田　幸一郎（東京大学大学院総合文化研究科）
   
   「形成期アンデス社会の政治過程」
   　国家と呼ばれるような複雑で大規模な社会。そのような社会が初めて登場するまでに、いかなる変化の過程があったのだろうか。本論文の目的は、中央アンデスにおける国家成立前夜、「形成期（2500-50B.C.）」に生じた変化の過程を把握することである。そのため筆者は、データの不足を補って全体的見通しを得るための仮説「競合モデル」を提案する。この競合は戦争のような直接的衝突とは異なり、相手がメディア上に提示したものを踏まえて差異を打ち出してゆく過程と定義する。それは人間集団間のみならず人間と自然環境の間にも想定される相互作用であり、これが常態として進行する中に変化が生じると見る。
   　先行研究では、アンデス形成期の発展は、宗教の伝播や政治的領土拡大との関連で説明されることが多い。しかし主要な変化が生じるのは１回だけになり、実際のデータと噛み合わない。本論では東大アンデス調査団による「神殿更新」説を新たなモデル構築の基礎に据える。これは、形成期の神殿が一定期間の後に土砂で埋められ、その上に新たな神殿が建てられる、というデータに基づくもので、更新の度に必要労働量や食糧が増大し、労働組織は複雑化したという説である。これをカスマ河谷で観察されている神殿間の競合の図式と組み合わせてみる。まず、より大きな神殿はより大きな余剰生産と社会の安定・持続性を示す存在と機能的に捉える。そして神殿を大規模化させる更新が実施されるには人（労働力）の確保が重要であるから、形成期の競合は、神殿をメディアとし、人の確保をめぐるものと仮定される。
   　まず神殿の規模での競合を採り上げる。形成期中期末（800B.C.）までは体積が急増し続けるが、後期（800-250B.C.）に入ると一気に低下する。更新一回毎の労働量もこれに並行する。次に、神殿の形態に見られる汎地域的共通項の数をみると、中期までのカスマ河谷が最多であり、これはその神殿規模が卓抜していることと対応する。以上の結果を「競合モデル」に即して考えるとき、形成期中期までは、他の神殿の形態や規模を意識し、それを踏まえた上で差異を積み上げてゆく競合を見出すことができる。
   　次に、このような形成期の社会と自然環境との関係を見てゆくと、中期末までに膨れ上がったカスマ河谷の人口が人口支持力に切迫したことが読みとれる。ここにエル・ニーニョ等の自然災害が加わる時、それまでの競合の軌道は行き詰まることになる。そして筆者は、形成期後期に神殿に注がれる労働量が減少するのは社会全体が衰退したからではなく、競合の矛先が変わったにすぎないと考える。まさにこの時を境に、農産物は根裁類からトウモロコシへとシフトし、規格化土器の大量生産が始まるからである。つまり、神殿をメディアとする競合から、より直接的な生産力での競合へと軌道が変わり、アンデス最初の王国の成立を見る、という見通しである。
   
   
   
8. 　澤合　由佳子（東京都立大学大学院社会科学研究科）
   
   「植民地状況における学校教育とキクユ社会―独立学校運動の成立背景を中心として(1900-1939年）」
   　修士論文は、ケニア最大のエスニック・グループであるキクユによる独立学校運動が成立した過程を通して、植民地状況における学校と現地社会の関係について考察を試みたものである。そして、キクユの独立学校運動が、西欧諸国によって導入された外的なシステムである学校教育制度を単に受容しただけではなく、社会内に取り込んだ植民地諸勢力の制度に部分修正を施して、植民地状況への適応を最大化するための変化を促した主体的な教育改革として明らかにすることを目的とした。
   　ケニアにおける学校教育制度の確立には、西欧諸国の宣教師によるキリスト教布教とイギリスによる植民地政策が深く関係している。植民地政府は国家制度や市場経済といった、現地社会の福祉を無視した個々の生を根底的に規定する新たなシステムを強制的に押し付け、人々の生活が急激に変化せざるを得ない状況を創り出した。一方キリスト教宣教師は、現地社会の伝統的な慣習や生活を根本から否定するキリスト教の布教を第一の目的とし、読み書き算術等の新たな知識や技術を与えて近代化を促進する強力な手段として「学校」を位置づけたのである。
   　こうした状況において、地理的にも植民地体制の心臓部に居住した農耕民であるキクユの多くは、植民地政府の白人入植政策により土地を喪失し、賃金労働に従事せざるを得ない状況におかれ、ケニアの他エスニック・グループに比較して植民地体制に最も深く参入することとなった。しかし、こうした植民地諸勢力との接触により、学校教育の経済的価値を早くから認識してそれへの要求を高めると同時に、教育内容やキリスト教に対する不満をも増大させていったのだった。
   　そのなかで「独立学校運動」とは、キクユが植民地政府やミッションの統制を離れ自ら主体的に学校を設立した運動を指す。キクユ一帯に散在した独立学校を結ぶ２つの独立学校協会を組織し、学校数は約400校に上るまでに勢いを拡大した。さらに、政府が禁止した英語による授業を行って独自の利益を付与し、植民地状況下において個人が高賃金を獲得し地位を高める手段として「学校」を読み替え、自らの目的に適う「学校」の創造を目指したのである。そしてこのようなキクユの学校運営の動きが、植民地政府の教育政策にも影響を及ぼし、法的にその存在を認めさせるまでに至ったことは、キクユが単に学校教育制度を受容しただけでなく、主体的な教育改革の遂行者として位置付けられると言える。
   
   
   
9. 　辰巳　頼子（上智大学大学院外国語学研究科）
   
   「フィリピン・マラナオ社会における新イスラーム知識人の誕生」
   　本論文は、国民統合政策や世界的なイスラーム復興運動といった政治状況がフィリピン南部マラナオ社会のイスラーム知識人の構成に与えた影響について、新しいイスラーム知識人の誕生に注目し論じたものである。
   　マラナオは、米国植民地支配が20世紀初頭以降課した公教育をキリスト教化であるとして退けてきたが、フィリピン独立以降、徐々にこれを受け入れていった。高等教育を受けたマラナオは、「プロフェッショナル」と呼ばれ、行政職や新設された大学の研究職に就き、社会、経済的に高い地位を持つようになる。
   　一方、マラナオ社会には、伝統的に、アラビア語での読み書きができ統治者の補佐を行うイスラーム知識人層が存在していたが、1950年代以降、中東のイスラーム復興運動の影響を受けて多くの伝道師が訪れ、中東に留学してイスラーム学を学ぶマラナオも増加した。彼らは帰国後「ウラマー」（単数では「アリム」）と呼ばれ、「教義をよりよく知る者」として従来の宗教職能者と区別されるようになった。こうして、1960年代以降のマラナオ社会には、プロフェッショナルとウラマーという二つのムスリム知識人集団が存在することとなった。
   　近年、より若く、伝統的な方法でイスラーム知識を獲得していないムスリムのなかから、イスラームを倫理的参照枠組とした社会開発を試みる知識人層が誕生した。そのなかでも、マラウィ市に設立された総合大学のイスラーム研究機関に所属する教官は、世俗の学問を修め同時にイスラームの知識を獲得していることから、世俗高等教育を受けたプロフェッショナルとも宗教職能者であるウラマーとも異なった存在として、「バック・トゥ・バック（両面を持つ者）」という俗称で呼ばれている。彼らは大学を基盤とした研究活動を行うほか、国際イスラーム団体の援助を受けながら、公立学校の教科書の書き換え、イスラーム学と世俗の学問を統合した学校の新設といった教育改革を試みている。バック・トゥ・バックは、一つの思想を共有している思想集団として認知されているわけではない。彼らの知識人としての正当性は、イスラーム的社会、経済、法システムとフィリピンのそれの双方に通じていることによってイスラームを倫理的拠り所とした社会開発を行いうる可能性にみいだされている。これは、イスラーム改革運動の担い手の多様性を指摘するとともに、イスラーム改革運動を、思想面のみならず、当該社会の経済、社会、歴史的文脈における「新しさ」に注目し研究することの重要性を示唆している。
   　バック・トゥ・バック層誕生の主な背景としては、1950年代以降の国民統合政策（総合大学の設立）および70年代以降分離独立運動の懐柔目的で実施された多文化主義政策（イスラーム研究機関、イスラーム法廷の設置など）によって、イスラーム学と世俗の学問のどちらもを学ぶ者への需要と受け皿が生まれたことがあげられる。
   
   
   
10. 　水上　浩（千葉大学大学院文学研究科）
    
    「護身術の民族誌 ―インドネシアのプンチャック・シラット」
    　本論文は、インドネシア共和国で伝統的に学ばれてきた護身術であるプンチャック・シラットについて、文献調査および現地調査で得られたデータをもとに描いた民族誌である。主な調査地はジャワ島中部のジョクジャカルタ特別州であり、調査期間は1998年9月から1999年7月の約1年間である。研究目的は、「土俗化」されたイスラーム神秘主義の基層の上に成長したとされる独特の文化プンチャック・シラットの具体的な活動に関する記述、および護身術という身体動作を介しての精神的育成とイスラームという信仰との関わりである。特定の流派内部で交わされる言葉や講話から観察される、流派の理念、イデオロギー、歴史観、意味などの伝達を中心に考察する。さらに、流派間に見られる交流関係にも注目する。問題意識の根底には、C・ギアーツに端を発するイスラームという信仰の類型化に対する疑問がある。調査対象としては、３つの流派を選んだ。ジョクジャカルタ発祥のムルパティ・プティ流は16世紀に同地で興ったイスラーム王朝マタラムの王族が始めたという伝統があり、ジャワ暦新年の儀礼や精神育成活動に、この歴史とジャワの伝統的慣習が色濃く反映されている。護身術の練習以外に精神面の教育に多くの時間を割き、王族につながる者として遵守すべき理念や倫理が強調される。近代主義イスラーム団体ムハマディヤが持つタパク・スチ流は、近代的な合理性と価値観と純粋なイスラームの教えに則した教育活動を行っている。非合理的な神秘主義や信仰を否定し、コーランとハディースという聖典以外に宗教的根拠や権威を認めない活動である。伝統主義イスラーム団体ナフダトゥル・ウラマのパガール・ヌサ流は対称的に、伝統的なイスラーム寄宿塾を活動拠点にし、宗教指導者キヤイの権威が求心性をもたらす。イスラームのまじないの章句を使用する超越的な力の獲得や、イスラーム神秘主義的な修行方法が特徴的である。
    　３者を比較すると、イスラーム神秘主義的色合いを見せるムルパティ・プティとパガール・ヌサに対する近代主義的なタパク・スチという対立関係が想定できる。しかしこの対立的な捉え方は、C・ギアーツの『ジャワの宗教』における信仰の類型化の議論と同様に、普遍的な結論とは言えない。むしろ、流派の精神育成活動内で語られる歴史や国民文化としての護身術をめぐる言説を見ると、プンチャック・シラットが民族やイスラーム、国家を護る道具としてみなされてきたことが分かる。行為者としての意識は、流派の理念や教義にのみ閉じ込められているものではない。流派、民族、国家、宗教といった様々な範疇に個人のアイデンティティーは流動的に存在している。そうした個人内部における多様なアイデンティティーを構築する装置として、プンチャック・シラットは学ばれつづけている。
    
    
    
11. 　大川　謙作（東京大学大学院総合文化研究科）
    
    「チベット民族意識の生成をめぐって」
    　本論文はチベット民族主義運動をその対象とし、そこに観察されるチベット民族意識の変遷を検証するものである。具体的には、第一にチベットという概念がその外延においてこの100年の間に急速な変容をとげたという現象を発掘し、この変動の原因と過程を明らかにするものである。第二に当事者であるチベット人たちの意志や意図を抜きにして中国の民族政策や国際環境といった大状況の変動に従属するかたちでしか描かれてこなかった現代チベットをめぐるこれまでの議論を相対化し、そうした大状況に対応することを強いられつつも、単に従属するというよりは独自の形でそれに対応し抵抗する、見落とされてきたチベット人の主体性を明らかにするものである。
    　現代チベットを対象とした研究を整理することで、現地調査困難という独自の事情から当然予測された研究領域の偏りはまた、チベット学者によって共有されていた暗黙の了解すなわち中国共産党主権下のチベットはもはやチベットではないという共有されていた暗黙の認識によっても備給されていたことを指摘しつつ、むしろ本論を現代チベットを正面から対象に据えるものとして位置付けた。チベットの地理的領域をめぐる混乱を政治的チベットと民族誌的チベットという区別を導入することによって整理し、結果としてチベットの概念領域は大きく変動していること、それはまさにチベット人という概念の変動によって引き起こされた事態であることが明らかにされた。チベット人概念の変容は、具体的にはチベット人としての名乗りをもたなかった周辺チベットの住民がチベット人という概念に統合されていく過程であり、清末民初からの中国による周辺チベットへの介入と圧力に対する応答としてのエスニシティの発達から、共産党時代の民族識別工作による国家の名付け、さらにはチベット亡命政府のイデオロギーの結果したものとしてのチベット人の結集にいたるまでをこの新たなチベット民族概念の誕生の原因として示し、これをチベット地域の住民の中国体験として一貫させた。この中国体験への独自の応答が、単なる従属ではなかったことをしめすための例証として、チベットにおける独立要求デモ事件のような紛争をとりあげ、それが「信仰の自由」などとして保証されているような儀礼的行動に抗議のメッセージを託したような抵抗活動すなわち「保証された」権利による「禁止された」政治活動であったと解釈し、チベット問題におけるチベット人の主体性を示した。
    　この結果チベット民族意識の生成はチベット人が生きてきた100年の現代史における様々な不平等や圧力に対する対応であり、この対応が独自の主体的な抵抗であったことが示された。
    
    
    
12. 　中嶋　直樹（埼玉大学大学院文化科学研究科）
    
    「アンデスのポリティカルエコノミー −アンデス高地南部先史ティワナク社会を例に」
    　本論文は、国家レベルにある政治組織がどのようにしてその経済的基盤を確立し権力を維持していたのか、この過程について世帯の生産活動という点から検証するものである。
    　本論文で対象とした社会は、アンデス高地南部現在のボリビア北部を中心としたティワナク社会である。この社会を選択した理由は、食糧生産技術についてデータが集まってたこと、世帯に関するデータが集まってきていることなどによる。これまでアンデスの古代国家に関する経済的側面における研究は生産的側面よりもむしろ流通(交換)的側面つまり互酬再分配から議論が多くなされてきた。しかし生産活動こそが人間の経済活動の基礎部分であり、この視点からのアンデス社会の研究は欠かせない。ただし、このことは交換ではなく生産にというような単純なものではない。それは、「交換の諸形態の分析をより有効にするためにも、生産構造の分析が重要である」いうことである。
    　方法としてはまず、近年の生産技術についてのデータを再検証し、そこから新たな視点を導きだした。その次に、世帯のデータに基づき、世帯の生産活動の変化、特に農具である鍬と織物用具である紡錘車や錐などの出土頻度・密度の変化、世帯住居址の構造の変化、家屋構造の方向性などに着目し、それらデータについて農民の持つ過少生産傾向という視点から解釈を行った。農具と織物用具の頻度や密度からは、ティワナク�W期後半と呼ばれるA.D.750〜900年間のみ農耕が強化されたことが示唆された。そしてそれはその他の時期とは異なり、農民の持つ過少生産を引き上げようとするティワナク政体による余剰の抽出がうかがえた。その結果、農民達の生産活動がある時期から組織化され協同労働という労働形態へと変化し、ティワナク政体による余剰の引き出しを目的した世帯の生産活動への直接的な介入が示唆された。また、その期間はこれまでの研究で言われているような700年間にわたる長期ではなく、わずか200年ほどでしかないことが示唆された。
    　これまでの研究では、食料生産の技術的側面に着目するのみで、その生産についての説明は静態的で、その過程を描くことができなかったが、今回その食料生産技術が利用される環境、条件という視点からデータを再検証し、また生産の最小単位である世帯に着目したことで、ティワナク期(A.D.400〜1100/1200年)の食糧生産の変化やティワナク政体の経済的基盤の過程を捉えることができた。ここが、生産と世帯に着目した本研究の最も大きな成果である。
    
    
    
13. 　藤掛　洋子（お茶の水女子大学大学院人間文化研究科）
    
    「農村女性のエンパワーメントに関する考察―パラグアイ共和国S村の住民女性が実施した生活改善プロジェクトの事例より」
    　本論文の目的は、生活改善プロジェクトを「主体的」に実施した農村女性の「語り」と実践から、女性のエンパワーメントの過程を具体的な事例として提示するとともに、女性たちを取り囲む社会・ジェンダー構造の諸特徴を分析することである。また、女性たちの「語り」からエンパワーメント指標を抽出し、考察することにより「女性と開発/ジェンダーと開発」の領域における女性のエンパワーメントの方向性を検討することにある。
    　本論文は、1997年より1999年の間にパラグアイ共和国S村で3回に亙り実施した調査から得られた質的データをもとに分析を行う。調査方法は、アンケート票を用いた半構造インタビューや参与観察などである。また、文献調査も併せて行った。
    　生活改善プロジェクトを開始する以前のS村（人口380人、72世帯）の女性たちは、マチスモ（男性優位）思想やカトリック教の倫理感による影響により生み出された言説が複雑に絡み合う日常の状況の中で「家からあまり遠くへ離れることなく」世帯の仕事に従事していた。また、≪神が十分とおっしゃるまで子供は授かり続けるもの≫や≪家族計画は神の教えに背くもの≫、という高齢の女性たちにより語り継がれる教えの中で、女性たちは、リプロダクティブ・ヘルスの領域における決定権を持ちにくい状況にあった。
    　S村の女性たちは、ラジオを通じて得られた近隣の村についての情報をきっかけに、「主体的」に生活改善プロジェクトを実施するに至った。そして、プロジェクト開始当初掲げた目的を達成するとともに多くの「副産物」的な結果を生み出していった。それらの結果には「良い事」も「良くない事」も含まれている。筆者は、この結果を成果「一類」、「二類」、「三類」という成果「三類型」に分類した（修士論文図5-1参照）。成果「一類」は、目的に照らし合わせた結果である。成果「二類」は、女性たちが感じる満足感や、個人や世帯、グループ内や地域のための新たな活動などである。成果「三類」は、社会の行動様式に対し変革を迫りうる可能性を秘めた女性たちの意識や行動の変化である。また、S村の女性たちは自身のことを「私は＜カンビオ＞した（変わった）」、「もう昔の私ではない」と語った。筆者は、女性たちは「エンパワーメント」した、と結論づけた。
    この事例は、先行研究で概観した実際的ニーズと戦略的ニーズの充足（モーザ　1996）のためには長期的な視点に立ったプロジェクトの推進が必要性であることを示唆している。また、女性たちの「語り」より12項目の指標が抽出できた（修士論文表7-1等を参照）。
    　本論文では、第三世界で「主体的」に生きる女性たちの姿やエンパワーメントの様相を具体的な事例として提示し、複雑に交錯した社会・ジェンダー構造の中における女性たちのエンパワーメントの過程を把握するための枠組みに幾つかの新たな視点を提供した。
    
    
    
14. 　安藤　直子（お茶の水女子大学大学院人間文化研究科）
    
    「観光人類学再考―岩手県盛岡市の祭礼「チャグチャグ馬コ」と「さんさ踊り」を事例として」
    　本論文の目的は岩手県盛岡市の祭礼「チャグチャグ馬コ」と「さんさ踊り」を題材に、祭りが伝統性を保持しながらも観光化を図ろうとする、一見対立する文脈で変化していく複雑なプロセスと、そのプロセスの中での祭りに携わる人々の、伝統保持及び観光化への関わり方を分析することにある。具体的には祭りを担う人々、祭りの参加者、行政、観光客、観光業者、マスコミ、市民、研究者の立場・役割を調査、分析し、担い手が観光化に対応し祭りに変化を加えるダイナミズム、観光が創造する新たな「伝統文化」等、従来の観光人類学において論じられてきたことを詳細なデータを用いて再検討することを試みた。
    　チャグチャグ馬コでは、３つのレベルの変化が見られる。第１のレベルは、観光客と祭りを担う側との関係における「見る観光客」「見られる担い手」という関係である。一例として、現在チャグチャグ馬コに多くのアマチュアカメラマンが訪れ、出馬者にイメージに沿った演技を要求している。担い手は、カメラマンの横暴な態度を不快に感じながらも要求に応える。第２のレベルとして、「見せられる観光客」「見せる出馬者」という関係が存在している。現実には祭りの担い手が伝えたいイメージ通りの祭りは残っておらず、同様に観光客が求める祭りも残っていない。そこで出馬者は祭りをオーセンティックに見せようとする。例えば、現実にはもはや農耕馬が存在しないため、祭りに使われる馬の大部分は他所から借りられている。こうして伝統的な祭りが演出されている。第３に「見せてもらう観光客（マスコミ、研究者）」「見せてやる担い手」という関係が成り立っている。例えば、滝沢村役場では取材の問い合わせがあった場合、相手が欲しい映像やコメントに合わせて対応する人物を選び出し訪問先を振り分けている。
    　盛岡市内の中央通りを会場にした観光目的の夏祭り「盛岡さんさ踊り」の実施に伴い、各地域で踊られてきた輪踊り型の「伝統さんさ」を元に、前進型の踊りが創作された。観光さんさの担い手は「伝統さんさを元に作られたこと」を用いて、また伝統さんさの担い手は各保存会の「踊りの型」に基づいてオーセンティシティを主張する。更に伝統さんさのオーセンティシティは、観光さんさとの距離の違いによって語られている。三本柳さんさ踊り保存会は、観光さんさと自分たちの踊りを区別し、三本柳の踊りを全国に広めている。一方、山岸・大宮さんさ踊り保存会は自分たちの踊りを元に観光さんさを創作し、市民だけでなく東京都上野等に広めることでオーセンティシティを追求している。
    祭りに訪れる人々に対して何を「伝統性」として提示するか、その選択の主導権は祭りの担い手が握っている。２つの祭りにおいては担い手による多様なオーセンティシティの求め方が見られた。その多様性の中に、新たな「伝統」創造のダイナミズムが検証された。
    
    
    
15. 　服部　洋一（東京大学大学院総合文化研究科）
    
    「死と死亡の再考―終末期の人類学的研究に向けて」
    　"死"は、静的な観点（「死」）からは明示的な差異の構造へと容易に結び付き、動的な側面（「死亡」）を追えば、再構築の過程に社会関係を把握する好機を提供し得る。本論文の目的は、現代都市社会を対象とした場合の人類学が、"死"の主題を有意義に検討するための新しい視座を開拓することに在る。"死"の研究史概観を通じて筆者が注意を喚起するのは、同主題を議論の俎上に載せるための媒介が、葬儀に代表される慣習と儀礼に限定され続けてきた点である。Metcalf＆Huntingtonの現代アメリカ社会を対象とした分析が、一枚岩的なイデオロギーを発見できずに破綻したことが示唆したように、人類学が、産業化・価値多元化を経験し、葬儀自体の変性著しい今日の欧米・日本社会へと視野を拡大する際に、この方法論上の拘泥を引きずり続けることは実り多いとは言い難い。
    　葬儀分析を代替・補完するものとして、筆者は、欧米諸国に端を発し、1960年代以降高まりを見せた終末期ケアの改革運動に注目することを提案する。これらの運動は、従来の生物医学パラダイムの課す限定性に反発した省察的医療者によって開始されたものであり、終末期の患者・家族が抱える多様なニーズに応じるべく蓄えられたケアに関する諸議論は、現代社会に於ける"死"の包括的把握の重要な手掛かりとなり得る。本論文が特に中心的に扱ったのは、技術的・制度的にも確立され、世界的な展開を達成したホスピス運動である。現代ホスピスは、�@"死"に対する敬意、�A患者の尊重、�Bオピオイドの定時的経口投与を中心とする症状マネジメント、�C全人的ケアとチーム・アプローチ、�D家族及び遺族に対するケア、という諸特徴を併せ持つ新しい理念＝技術複合体であり、旧来の延命第一主義的な終末期医療に代わり得るもう一つのケア像を提示することに成功した。
    　葬儀研究が蓄積してきた知見を最も直接的に応用すれば、ホスピスを現代社会に於ける"死"の統制装置と見做す議論の様式が顕れる（＜統制＞の視座）。しかし、現代社会の死亡の文脈の大きな特徴は、イデオロギーが多元化・局在化した結果、相互行為を自動的・形式的に進行させるレールが撤去され、病者を取り巻く小規模な社会集団のコミュニケーションを通じて、相互作用の在り方や目的そのものが継続的に問い直されて行く、という点に在る。終末期特有のこのような状況を分析するためには、より対象に接近する＜学習＞の視座がもう一つの鍵となる。終末期に於ける社会関係の再編は、学習しあう病者、家族、専門家に加え、場を形成する施設、道具、教育システム、ケア技術等を含めた系の全体が、ある限定された時間の中で行うフィードバックの連鎖として把握されるべきである。同時に、このような状況は、"死"の人類学が一貫して強調し続けてきた社会的恒常性とは一体何であったのか、ということを反問し、新たな記述の様式を要求しているのである。
    
    
    
16. 　上野　あかね（一橋大学大学院社会学研究科）
    
    「ンゴジによる祟り−ジンバブエ解放闘争の「トラウマ」論をめぐって」
    　ジンバブエのショナの人々は「ンゴジ（ngozi）」という死霊観念を持つ。ンゴジとは、ショナの人々が持つ多様な死霊観念の一つであり、何らかの理由で恨みを持って死んだ者の霊である。恨みを持って死んだ者の霊は恨みの対象となる人物、もしくはその家族に病気や死などの災いを引き起こすと考えられている。
    　ジンバブエは約１４年間にわたる解放闘争を経て、１９８０年に独立した。解放闘争後のショナ諸社会では多くの人々が解放闘争中に殺された人々の霊であるンゴジによる祟りに苦しんでいることが、複数の研究者によって報告されている。レイノルズは、解放闘争の「トラウマ」の「癒し」の必要性を訴え、その「癒し」に霊媒であり、伝統的治療者であるンガンガ（nganga）が重要な役割を果たしていることを報告している。そして闘争中に殺された死者の霊であるンゴジによって祟られている状態を「トラウマ」の現われであると解釈した[Reynolds 1986, 1990]。彼女のこの研究が、解放闘争後の社会変化を扱う他のジンバブエ研究者に与えた影響は大きく、その後ショナの異なる地域を調査地とする他の研究者によってもンゴジによる祟りの増加が報告されることとなった。また、解放闘争後の「癒し」の必要性を訴える研究者たちによって、彼女の記述は繰り返し引用されている。
    　本論では、解放闘争以前のンゴジに関する研究をふまえた上で、様々な角度からンゴジによる祟りの増加という現象を捉え直そうと試みた。そしてそれにより、ンゴジによる祟りと解放闘争の「トラウマ」とを結び付ける議論の問題点を指摘した。ンゴジによる祟りが増加しているというのは、すなわちある災いがンゴジによって引き起こされたと診断される場合が増加しているということである。ンガンガによる診断や、その診断に基づく病気への対処を含む、ある病気が起きたときに「ンゴジによる祟り」という結論に至る過程を見ていくことにより、「ンゴジによる祟り」であるという診断がある災いが起こった後に遡及的になされるものであること、さらにンゴジではなく、他の霊的存在や妖術が災因として選択される可能性も大いにあり得ることを指摘した。解放闘争の「トラウマ」に起因すると考えられ得る精神的混乱のような症状がンゴジによる祟りであると診断されることはあっても、それはンゴジによる祟りであると診断されたありとあらゆる病気の症状や災いの一部を構成しているにすぎないのである。
    　さらに本論ではショナ諸社会における死霊観念についての理解を深めることにより、解放闘争の「トラウマ」の有無とは関係なく、ンゴジによる祟りが増加する理由が十分にあることを示している。これらの議論から、ンゴジ観念に関する詳しい研究を行なわないままに、安易に、そして無批判に両者を結び付ける研究者たちの態度に対する批判を行なった。
    
    
    
17. 　田所　聖志（東京都立大学大学院社会科学研究科）
    
    「パプアニューギニア東部高地、サンビア族における社会統合の近代的変容―イニシエーション・儀礼的同性愛・出稼ぎをめぐって」
    　本修士論文は、サンビア族の社会の統合機能の近代的変容について論じたものである。その際、時代を二つに区分した。一つはオーストラリア行政に管理される以前であり、一つは1960年代後半に始まる近代的変容を受けた以後である。これら二つの時期における社会を統合させている機能、制度を検討することにより、サンビア族における社会統合を捉え直すことが目的であった。
    　ニューギニアの伝統的な政治体系に焦点を当てた研究においては、近代的変容は伝統的な社会の一部を崩れさせたものと理解された。ここでは、社会統合の諸機構が近代的変容を遂げたことに対する相対的、体系的な分析を欠いていた。その一方で、近代的変容をめぐる研究における分析枠組みでは、伝統的社会統合の構成は変化され、再編を余儀なくされるものとしか捉えることが出来ない。つまり、変化した側面を強調しすぎ、ある意味で伝統が持続したといいうる点を当該社会の社会統合に対する分析に十分に反映させることができなかった。以上のような先行研究を踏まえ、本修士論文は社会の持続と変容に焦点を据えたアプローチを取った。
    　サンビア族においては、植民地行政の管理下におかれ、その後独立国家に編入されていく以前、他部族や他の小村との戦争が恒常的におこなわれていた。不安定な政治状況のなかで小村を外部から守るのは男性の戦闘能力に左右される。戦闘能力を備えるために、すべての男性たちは精巧に構築されていたイニシエーションの儀礼すべてを経験する必要があるとされていた。こうした社会状況の中で、指導力を発揮していたのは、戦争リーダー、長老、シャーマンたちだった。
    　以上のようなサンビア族の研究に加え、本修士論文では1960年代から1970年代後半にかけての社会変化も対象とした。サンビア族は、西欧人との初期接触を1950年代後半において経験し、1960年代後半にはオーストラリア行政の管理下に置かれた。その後1970年代にはいると、行政指導によりイニシエーション儀礼を改変させられた。その一方、1970年代後半以後には、沿岸部の農園や都市といった小村の外部へ出稼ぎに行く男性が増加した。
    以上の近代的変容の過程の中で戦争リーダー、長老、シャーマンといった従来のリーダーシップの持つ権威が弱体化したとともに、近代的な現象である出稼ぎが男性の地位のあり方に意味を与えるようになった。それは、従来のリーダーシップがそれぞれの知識や経験を媒介として確立されていた一方で、出稼ぎによって得る知識や経験も価値のあるものとされたからである。したがって、イニシエーション儀礼を通して構築されていた男性の地位は出稼ぎ労働を通しても再構築化されているのだ。以上が本修士論文の骨子である。